地震にまつわるお金の話
  
            −下りないはずの保険金が支払われた!!
 
2004年9月23日

今年も、9月1日の「防災記念日」を迎えた。
関東大震災が発生した9月1日を忘れずに、防災の意識を高める日である。
毎年この時期になると必ず報道されるのが、火災保険と地震の関係である。

今では「常識」になりつつあるようだが、普通の火災保険では、地震によって家屋が焼失・損壊しても保険金は一銭も下りない。「地震による火災事故、あるいは地震による家屋の倒壊や破損に備えるためには地震保険が必要です」、というキャンペーンが毎年繰り返されている。

ところが、関東大震災では本来支払われない筈の地震による火災に保険金が支払われたのである。名目は「見舞金」であったが、ともかく火災保険に入っていて罹災された方にはお金が下りた。損害保険会社は巨額の借金までしてこの支払を行ったのである。

一体、どういういきさつがあってこういう結果になったのか?

その歴史を振り返って見ると、現在にも通じる日本と欧米との差が浮かび上がってくる。
今回は80年以上も昔にタイムスリップして、歴史的な事件を追体験して見る。

余談になるが、写真は関東大震災で炎上する東京警視庁のビルである。
空襲で焼けた東京駅もそうだが、戦前の東京や横浜には豪壮で華麗なビルが多かったのである。

 炎上する警視庁ビル


(出典は「大正大震災誌」(報知新聞付録・大正12年9月))


関東大震災と経済的被害

先ず、関東大震災の内容をざっと振り返って見る。
この大震災が発生したのは、大正12年(1923年)9月1日の正午2分前である。
震源は相模湾西北部で、地震のエネルギーをあらわすマグニチュードは7.9であった。

記憶に新しい阪神淡路大震災の約7倍という、凄まじい規模の地震である。
阪神淡路大震災のマグニチュードは7.3である。たった0.6の違いが7倍の違いにもなる。
この地震による被害は空前の規模に達した。(内務省社会局「大正震災誌」による)

・被災者数340万人(うち死者・行方不明者10万人強)
・家屋の全焼38万戸強
・家屋の全壊8万戸強

この大震災による経済的被害総額は、101億円5,000万円強であったと言われている。
当時の国家予算は14.5億円程度であったので、その7倍もの巨大な被害である。
国家予算の7倍とは、現在に置きかえれば560兆円である。

さて、ここからが本題である。

大きな地震が発生すると、火災保険による支払という問題が必ず起こる。
阪神淡路大震災の時にも裁判沙汰になったので、ご記憶の方も多いと思われる。
関東大震災の当時も、地震発生の直後から、この火災保険問題は大きなうねりとなっていった。

ただ、当時は個別の裁判沙汰程度のトラブルでは終わらなかったのである。
天皇陛下をも動かす大問題へと発展していった。


関東大震災による火災保険問題

さすがに現在では、地震による火災は火災保険の対象外であることを知っている方が多くなった。
ところが、大正時代当時にあっては、この「常識」を知っていた方はごく少数であった。
まして、史上空前の大災害の発生である。

「約款に書いてある」、という保険会社の言い分による支払拒否は、世間の圧倒的な非難にさらされる。
先ず、噛みついたのが弁護士会やマスコミであった。

その言い分を要約すると、「地震免責は保険会社が一方的に決めたことで、契約者の同意を得ていない。その約款も虫眼鏡で見なければ読めない。免責条項は、メクラ判と同じで法的拘束力はない」、というものである。

この言い分は世間受けをするし、分かり易い。最近でも良く使われる論法である。
だが、法律の世界は冷徹であり、裁判を起せば原告側は常に「負け」である。
当時でも裁判になれば、同じような道を歩んだことは間違いがないと思われる。
だが、時代は大正である。
全く違う展開を見せるのである。何時も通り、世間の動向に敏感な政治家が動き出す。

世間一般の声や有識者達の論調に後押しされ、9月11日には、当時の樺山内閣書記官長が談話を発表する。
その内容を噛み砕いて言うと、「(損害保険)会社も道義を重んじて、出来るだけの支払をするのが当然。明文を云々する時期ではない」、という内容である。

内閣書記官長とは現在の内閣官房長官にあたり、政府の中枢である。
明文(約款や法律で定まったルール)にこだわらずに、道義を大事にすべきという主張である。
法律に最も厳格であるべき内閣の中心人物が、ルールではなく、道義を持ち出したのである。

翌12日になると、「帝都復興に関する詔勅(しょうちょく、天皇のお言葉)」が発せられる。
遂に民間の保険問題に「神の声」が下ったのである。
詔勅の一節を意訳すると、「平時の条項にこだわってその活用をおこたれば、人心の動揺はとどまるところを知らず、云々」、となっている。

これに続いて、首相(山本権兵衛)は、告諭を発する。
「例エハ保険業ノ如キハ……犠牲の精神を発揮して…」
犠牲的精神を発揮して、超法規的措置を行うべし、と諭(さと)したのである。

ことここに至っては、「勝負あった」、である。
損害保険業界は、保険金を支払う方向で調整を進めることになる。
ところが、犠牲的精神の発揮は良いが、その支払額たるや天文学的数字になることが判明してくる。


損害保険業界の支払予想額

関東大震災によって焼失した家屋やビルの罹災額を算出してみると、国内保険会社だけでなんと15億9千万円にも上っている。(この外に外国保険会社は、約3億円の罹災額を抱えている)
罹災した物件の保険金額を単純に積算したものであろうが、それにしても天文学的な金額である。

関東大震災による被害総額が当時の国家予算の7倍にも上ることは前述したが、15億9千万万円という金額も、当時の国内損害保険会社の資産総額(2.3億円)の約7倍に達するのである。
現在に置きかえると、2002年度末の損保総資産は約30兆円であるから200兆円を超える。

資産を全部使っても支払い切れないのである。
本来なら支払う必要の無いお金を、身銭を切って支払おうというのである。
政治を巻き込んでの凄まじい調整の結果、保険金額の10%を上限として、「見舞金」という名目で支払うことで決着する。

結局、国内保険会社による見舞金の支払総額は、7,142万円となったのである。
この額は、当時の国内損害保険会社総資産の約30%にあたる。
それでも、現在の規模に置きかえれば、9兆円というとてつもない金額である。

この支払にまつわる後日談だけを付言しておきたい。

(1)政府は、見舞金支払に充てるため、利子4%、償還期限最長50年で損害保険各社に援助金を公布することとした。
(当時、政府の援助金に頼らず、自力で見舞金を支払った保険会社は5社に過ぎなかった)
(2)見舞金の支払には、逆累進性を採用し、ビルや工場等の大規模物件ほど支払率を低減させた。
(下に厚く支払う、という方針である。この措置は世間から好感を持って迎えられた)

一方、外国損害保険会社は、結局見舞金の支払を拒否する。
「法的に支払う必要のないものは当然支払わない」、という彼らからすれば当然の姿勢であった。
ただ、これを境にして当時15%近くもあった外国損害保険会社の国内マーケットシェアは激減していく。


結論

後日談の続きであるが、実際に見舞金が罹災者の手許に渡ったのは、翌大正13年の春以降であった。それにしても、罹災家屋一軒、一軒を見てまわり、被害状況を確認した上で見舞金を支払う作業とは、想像を絶する大変さであったはずである。

それにしても、時代が大正とはいえ、当時の損害保険会社はよくも支払ったものである。
現在なら株主代表訴訟が待ち受けているし、当然、「法的根拠のない支払には応じない」、という当時の外国保険会社の言い分で押し通すはずである。

一方、「日本の常識は世界の非常識」というのが竹村健一さんの口癖であるが、火災保険の世界にもこれが当てはまる。欧米の火災保険では、地震による火災は保険の支払対象である。地震による倒壊や破損などが免責になっているに過ぎない。

ただ、日本には、居住用建物と生活用動産の火災保険の場合には、原則として付帯が義務付けられ、政府が一定限度までの巨額支払を保証する、地震保険という独特の仕組みがある。残念ながら、付帯を希望しなければ判を押せば良いという、「抜け道」があり加入率は16%強という低さである。

このため、阪神淡路大震災当時の神戸地区の地震保険加入率は数%に過ぎなかったため、地震保険から支払った保険金は783億円に過ぎなかったのである。
住宅ローンだけが残った悲惨なケースがマスコミで何度も紹介されていたが、今では話題にする人もいない。

神戸地区の加入率は現在では12%程度まで上がっているそうであるが、それにしても低い。
「災害は忘れないうちに発生する」、という時代まわりになっているそうである。
今一度、暮らしを巡るリスクを見直す良い時期である。


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